文在寅大統領の母、カン・ハンオクさんが29日、釜山市内の病院で死去した。享年92。病院で最期をみとった文大統領は、今、殯所(喪屋、棺を安置する所)の置かれた釜山水営区南川聖堂で過ごしている。
30日午後、文在寅大統領は、南川聖堂を訪れた正しい未来党の孫鶴圭代表を迎えた。弔問を終えた孫代表はメディアに対し、こう語った。
「文大統領は、朝鮮戦争当時、母は避難民として苦労して子供を育てた。父は北朝鮮で農業教師を務めたり、係長(公務員)をしたりしていたが、韓国では公務員をせず、商売をしていた。母は山村で練炭配達をするなど、厳しい暮らしをしていた。何よりも、母に故郷の地を踏ませてあげることができず、申し訳ないと言っていた」
●韓国経済
母の死去にともない、謎の多い文在寅の出生、成長期の生活などに改めて注目が集まっている。
出生と成長期について、青瓦台HPの「大統領」の項には、こう記されている。
文在寅大統領は1953年1月24日、慶尚南道巨済の田舎の農家で失郷民(朝鮮戦争当時、北朝鮮から韓国に来た人々)の息子として生まれた。両親は朝鮮戦争当時、興南から避難してきて巨済に定着した。
小学校に入学する頃、彼の家族は釜山市影島に引っ越した。貧しい家庭の事情にもかかわらず、釜山の名門、慶南中学校と慶南高等学校に入学し、優秀な成績を収めた。 彼が慶南中学校に合格した時、普段、無口だった父が誇らしい感情を隠さず、「制服を作ってあげる」と言って、彼を国際市場(釜山一の市場)に連れて行ったという。
貧しさゆえに、やりたくてもできないことが多かったが、彼にとって貧しさはむしろ自立心と独立心を育てる滋養分になった。 また、幼い頃の貧しかった記憶はそのまま人生の教訓となり、恵まれない貧しい人々をただ見過ごすのではなく、助けようと誓うきっかけになった。
NAVERの「時事常識事典」には、こうある。
朝鮮戦争当時、興南撤退時に韓国に避難し、巨済の避難民収容所に定着した。父は公務員だった経歴から巨済島捕虜収容所の労働者として働き、母親は卵の行商をしながら辛うじて生計を立てた。その後、家族は北朝鮮出身の避難民たちが大勢、居住していた釜山市影島に生活の場を移した。
巨済島は慶尚南道の南海上にある韓国で2番目に大きな島。朝鮮戦争当時は後方基地となり、兵士の訓練所や避難民収容施設が置かれた。島内には米軍がによって巨済島捕虜収容所が設けられ、1952年5月には、共産主義者による暴動が起きたりもした。
文在寅の父(ムン・ヨンヒョン 1920年生まれ)は妻(カン・ハンオク 1928年生まれ)と乳飲み子だった長女(1949年生まれ)を連れて、興南(北朝鮮の咸鏡南道中部の市)埠頭から1950年12月23日、米軍の輸送船に乗って韓国に逃れてきた、というのが定説。
しかし、ジャーナリストの鄭奎載さんが、今から数年前に、朝鮮戦争当時、北朝鮮地域で活動してた米軍の情報部隊に勤務していた人から聞いた話は違う。
文在寅の父、ヨンヒョンは興南市で農業課長にまで昇進した共産党員で、情報将校として活動し、洛東江戦線で韓国側に逮捕されたというのだった。(文在寅の回顧録「運命」(2011年)によると、農業係長時代、ヨンヒョンは共産党加入を強要されたが最後まで拒否したと記されているのだが、これは当時の情勢からして、かなり不自然だ。公務員でありながら「最後まで拒否した」理由が分からない)
そこで、鄭奎載さんは部下といっしょに朝鮮戦争捕虜名簿を調べてみたのだが、ムン・ヨンヒョンという名前はなかったという。したがって、この事実は確認できなかった。
回顧録「運命」にはこういう記述もある。
「避難する際、父と母は2~3週間程度と考えて故郷を出たという。だから、それこそ徒手空拳、何も持たずに故郷を出たのだった」
これが事実だとすると、ムン・ヨンヒョンは自由を求めて韓国にやってきた、ということではなく、あくまでも一時的避難だったとみられる。
実際、興南埠頭からたくさんの北の住民が米軍の輸送船に乗った理由として、中国人民解放軍の参戦によって東部戦線で北進していた米軍第10軍団と韓国軍第1軍団が押し戻されたことに加え、清津から興南のあたりに原爆が投下されるという流言飛語が出回っていたということがあった。
そういう事情で韓国にやってきて北の故郷に戻れなくなったムン・ヨンヒョンは、特に自由を求めてきたわけでもなく、生涯、慨嘆して暮らしたという説もある。
このへんから、いろいろな憶測が出てくるのだが、鄭奎載さんの解説。
「朝鮮戦争前と戦争中にたくさんの人が北から南にやってきた。彼らは国際市場(釜山)、南大門市場(ソウル)などで裸一貫から商売をして富を築いた。また、キリスト教徒たちも逃れてきて、永楽教会など多くの教会を設立し、保守教団の根幹を築いた。
北から来た人たは韓国発展の先鋒になった。サングラスをかけた朴正熙大統領の横に並んでいた人たちの相当数は北の出身だった。政権中枢から排除されたりした時期もあったが、韓国の発展に大きく寄与した。
しかし、一部の勢力は「民主化」という看板を掲げて、反朴勢力となっていった。この流れの頂点に文在寅がいる」
極貧に近い暮らしをしながらも、文在寅は釜山の名門中学、高校に通い、1972年、ソウルの私立大学、慶熙大の法学部に進学した。
ちなみに、慶熙大は立命館と関係が深い。立命館のHPで慶熙大はこう紹介されている。
「慶熙大学校は2002年に国際平和研究学会の研究大会を開催するなど、平和学に力を入れています。立命館大学は、INU(International Network of Universities:国際大学ネットワーク)の他加盟大学と共同で、「地球市民と平和(Global Citizenship and Peace)に関するDMDP(共同修士学位プログラム)」を新たに開始。慶熙大学校平和福祉大学院は、その最初の協定校です」
ムン・ヨンヒョンは捕虜収容所で働いていたのではなく、捕虜として捕まっていて、捕虜収容所で看護婦をしていたカン・ハンオクと出会って結婚した、という説もあるが、これはいくらなんでも荒唐無稽な話だろう。
(2)に続く