慰安婦像のモデルは、米軍装甲車女子中学生轢死事件で亡くなった女子中学生なのか?

投稿者: | 2019年8月16日

慰安婦像は、もともと、2002年6月に京畿道楊州郡で起きた米軍装甲車女子中学生轢死事件(駐韓米軍基地に戻っていた米第2歩兵師団所属の装甲車が、公道で事故を起こし、2人の女子中学生を轢き殺してしまった)で亡くなった女子中学生(当時2年、14歳)を追悼するために造られたものだが、当時、在韓アメリカ大使館の反対によって表に出せず、お蔵入りになっていたのを流用した。椅子が2つあるのも、事件の被害者が2人だったから、という説がある。

これは、正しいのか?

結論、間違いである。そういう事実はない。

しかし、間違いではあるのだが、この説がまことしやかに流布され、みんながある程度、信じてきた、そうなっただけの事情もある。
米軍装甲車女子中学生轢死事件と慰安婦像には、関連はあるのだ。

どういうことか?

ソウルの日本大使館前の慰安婦像(今、韓国では「平和の少女像」と言っている)は、2011年12月14日に、挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会 現在は「日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯」と言う)によって、歩道上に設置された。

1992年から毎週水曜日に開催されている元慰安婦に対する日本政府の謝罪と賠償を求めるデモ活動(水曜デモ)が1000回に到達したのを記念しての設置だった。

像を制作したのは、キム・ウンソンさん(夫、1964年春川生まれ 55)とキム・ソギョンさん(妻、1965年ソウル生まれ 54)夫婦。

2人は大学(中央大学芸術大学84年入学)で出会った。大学時代、キム·ウンソンは芸術大学総学生会長を務め、キム·ソギョンさんは会長を一生懸命、サポートしていたという。

芸術活動としては、1980年代の民主。統一を形象化する民衆美術運動を共に行い、1994年、国立現代美術館で開かれた「民衆美術15年」展に共同で出品するなどし、以降も着実に作品を造り続けてきた。
●週刊京郷

米軍装甲車女子中学生轢死事件が起きた当時、最初に現地に建てられたのは、こういう碑だった。キム・ウンソンさんとキム・ソギョンさんが慰安婦像を造る9年前のことだ。

これが最初の追悼碑。「シム・ミソン シン・ヒョスン 追慕碑」とある。

左がシム・ミソンさん、右がシン・ヒョスンさん。

2012年6月、10周期を迎えた際にキム・ウンソンさん夫婦によって制作されたのが、このモニュメント「少女の夢」。慰安婦像が完成して設置されたのが2011年12月なので、その半年後のことだ。

モニュメントと共にマスコット人形も造られた。


ソウルの日本大使館前の慰安婦像。

見比べてみると、いくつかの類似点に気づく。同じ作家の手によるので当然なのかもしれないが、造形のタッチがマスコット人形と慰安婦像でよく似ている。顔立ち、特に目元の感じがそうだ。

それから、髪形。シム・ミソンさん(左)と慰安婦像のヘアスタイルはほぼ同じだ。

日本軍を相手にした慰安婦に、もちろん14歳の少女はいなかったが、そのこととは別に、当時、14歳くらいの朝鮮の少女はこういうヘアスタイルではなく、三つ編みで一本にまとめるのが一般的だったはず。

この点について、キム・ソギョンさんは「荒っぽく切られた短髪は、強制的に連れて行かれなければならなかった痛みを意味する」と語っている。
●YTN

少女の隣に空いた椅子を置いたことについてのキム・ソギョンさんの説明はこうだ。

「少女像の隣の空いた椅子には3つの意味がある。 亡くなったおばあさんが空いた椅子に座って一緒にいてくれることを願う心、通りかかった人なら誰でも空いた椅子に座って、おばあさんたちと一緒に日本大使館を見ながら考えること、そしてその椅子に座っておばあさん·少女と一緒に平和の約束を守ろうという’意志の席’という意味を込めた」

●OhmyNews

ちなみに、慰安婦像がこの形になった裏に、日本大使館のある鍾路区の区長による相当に具体的な指示があったという。毎日経済がこう報じている。

慰安婦少女像は、当初、現在の姿で企画されてはいなかった。当初、挺対協は墓碑や石碑のような形を構想していた。
しかし、それだと許可の問題が容易ではなかった。外交関係に関するウィーン条約第22条は「各国政府は外国公館の安寧を妨害、または品位の損傷を防ぐために、あらゆる措置を取る特別な責務がある」と規定している。
日本政府はこれを根拠に日本大使館周辺に慰安婦と関連する追悼碑を建設することについて強い反対意思を明らかにした。
そこで、追慕碑や記念碑ではなく、少女像のような芸術作品とすることを提案したのは、日本大使館のある鍾路区の長だった。キム・ヨンジョン鍾路区長は、区庁長に当選する前、26年間、建築家として働いてきた。
その経験から、碑石だと許可は難しいが、芸術作品とすると、法的な問題を避けられると挺身隊問題対策協議会にアドバイスしたのだった。
黒髪の短髪に白いチョゴリ、黒いスカート、木の椅子と隣りの空いた椅子、15度見上げる目線で日本大使館を見つめる姿など、現在の少女像の基本コンセプトも彼が出した。
日本の真の反省を待つという意味で、少女像の名前を”キダリム(待つ)”としようとも提案した。

●毎日経済

この指示が正確にいつあったのかは不明だが、キム・ヨンジョン鍾路区長に会うまでは「墓碑や石碑のような形を構想していた」ということからすると、モニュメント「少女の夢」のようが最初の構想だった。それが、事情をよく知る区長の指示で、人の形の芸術作品となった。そして、ここから、キム・ウンソンさん夫婦は像のイメージを造っていった。

鍾路区の長という立場にある公人が、こんな指示、入れ知恵をしていたなんて、日本では考えらえない噴飯物のことだが、ともかく、慰安婦像はこういう経緯で制作が始まったのだ。

さて、私なりにいろいろ調べてみたが、米軍装甲車女子中学生轢死事件当時に、被害少女たちをモデルにして後の慰安婦像のような像を造っていたとか、それを展示しようとしてアメリカ側から反対されたとか、そんな事実はまったくなかった。キム・ウンソンさんとキム・ソギョンさんもそういう旨の発言はまったくしていない。

したがって、米軍装甲車女子中学生轢死事件の被害者と日本大使館前の慰安婦像は直接的には無関係とみるしかない。

ただ、制作した彫刻家夫婦は米軍装甲車女子中学生轢死事件で亡くなった少女たちの追悼碑も造っており、慰安婦像を造るにあたって、2人の姿が、ある程度、イメージに投影されたということはあるのかもしれない。

言えるのは、ここまでだ。

米軍装甲車女子中学生轢死事件の被害少女たちは、慰安婦像のモデルではない。

そう判断せざるをえない決定的に理由は、なんといっても、慰安婦像を造った本人が「米軍装甲車に轢かれて亡くなった女子中学生をモデルにした」というようなことをひと言も言っていないこと。

制作者自身が「モデルにした」と言ってないのに、似ているからといって、外野が「モデルにした」と断定することはできない。

慰安婦像のモデルについて、キム・ウンソンさんはこう説明している。

少女像を建てることが決まり、彼(キム・ウンソンさん)は当時小学校4年生の自分の娘をモデルにしてチョゴリを着せて夫人ソギョンとともに作業を開始した。 ただ、彼は少女像の顔は想像の中で描いたという。 実際の人物をモデルにした場合、モデルが意図しない傷を負うこともあり得ると思ったからだ。

●マネートゥデイ

慰安婦像は、米軍装甲車女子中学生轢死事件で亡くなった女子中学生の像の流用ではないし、彼女たちが慰安婦像のモデルになったわけでもない。これが事実だ。

そして、最後に、はっきり言っておくが、もともと、この少女の姿をした慰安婦像は、事実に反する捏造にすぎない。

14歳くらいの少女が日本軍の慰安婦をしていた、性奴隷にされた、などというのは、まったくの事実無根だ! 


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