貢女 ~「慰安婦」にも投影された民族の悲しい記憶

投稿者: | 2019年5月8日

貢女(コンニョ)

<定義>
高麗·朝鮮初期、元と明の要求により処女を選んで送ったこと。

<淵源>
高麗は1231年から1258年まで30年間にわたって、モンゴルの侵入を受けた。 高麗が強力なモンゴルの軍事力を完全に撃退することは非常に難しいことだった。 モンゴルも江都(現在の江華島)に遷都して対抗する高麗を軍事的に屈服させる自信はなく、両国の間で和平の交渉が進められた。

その後、高麗はモンゴルの駙馬國(モンゴルの皇女を王妃に迎えモンゴル皇帝の「婿」となった高麗王が治める国)として血縁関係を結んだが、モンゴルは和平条件として多くの貢物と貢女を要求した。

婦女貢納の表面的な口実は、モンゴルが獲得した数十万人の降伏した兵士たちに配偶者を用意するという帰順兵の慰撫策にあった。 しかし、その裏には高麗女性に対する野望満足策と、なかなか降伏しようとしなかった高麗の婦女を強奪し、高麗の反モンゴルへの意志を無気力化させようという高等術策が隠れていた。

<内容>
1275年に10人を送ったのを皮切りに、恭愍王の初期まで80年余りの間、数多くの女性を元に送った。元に行った処女進貢使の往来件数は「高麗史」に50回以上記録されている。

貢女による弊害は大きかった。忠烈王は国中の婚姻を禁じた。また、1287年、良い家柄の娘たちは、まず官に報告してから嫁がせるよう命令を下した。その後もこのような禁婚令を時おり下して処女の確保を図った。

貢女は主に13歳から16歳までの娘を対象にした。 そのため禁婚令が下される前にあらかじめ婚姻させるべく、10歳になると婚姻を急ぐ早婚の風習が生まれた。 また、髪を切って僧になったり、切羽詰ったあまり自ら命を絶つこともあった。

元に行った女性たちのなかには、奴婢に転落して市場で売買されたりもした。 しかしモンゴル社会の上層部で、皇帝·皇后および貴族の宮人または侍女として相当な活躍をしたケースもあった。 皇后にまで上り詰めたケースもあり、元の順帝の第2皇后となった、キ・ジャオ(奇子敖)の娘キ・ファンフ(奇皇后)がいる。

一方、貢女の大部分が元の皇室の宮女になったり、高官の世話をしたりしたので、高麗の生活様式が広く燕京(北京)社会に広がって高麗風が流行した。

こうして高麗の衣服制度と食べ物が元の皇室や高官の間に広がって高麗様式という新しい言葉ができ、高麗餃子·高麗餅·高麗鴉靑(カラス)などが楽しまれた。

<変遷>
明への貢女のケースを見ると、漢族の朱元璋(明の太祖)は1368年、明を建て、元をモンゴル地方に追放して中国大陸を統一した。 彼は北京に住む高麗人を治めるようになったが、最初は女性の貢納を要求しなかった。

むしろ元で婚姻して暮していた忠恵王の娘、張寧公主を恭愍王の要請に応じて帰した。 恭愍王はこれを感謝して1373年、密直副使チュ・ヨンチャンの娘を明の皇室の女官として送った。これが明への貢女の始まりである。

明への貢女は高麗の恭愍王の時に始まり、朝鮮(李朝)に継承された。明は1408年から1521年まで、10回余り宦官とともに貢女を要求した。 その後、明が滅び、清が建国されると、貢女の要求はなくなった。

出典:NAVERの知識百科  韓国民俗文化大百科に掲載された韓国学中央研究院の記述

 

<山本光一による付記>

慰安婦問題というのは、じつは、朝鮮民族の歴史に深くしみ込んだ悲しい記憶のオーバーラップ、つまり自己投影なのである。

彼らが主張する慰安婦のストーリー、「日本軍によって20万人以上の女性が連れ去られて性奴隷にされた」云々は、この貢女の悲劇に重なる。この地では、長く、女性たちが支配者によって連れ去られる、ということが繰り返されてきた。

そして、日本は1910年から1945年までの35年間、この地を併合して統治した。

つまり、支配者だったのだから、日本も当然、そういうことをしただろう、という憶測、(自分たちを被害者とするために)そうであってほしいという屈折した願望が、貢女という民族的記憶を呼び起こしたのだ。

それは比較的、最近のことだ。

戦争(大東亜戦争)が終わったのが1945年、日韓基本条約が結ばれたのが1965年、条約締結までの日韓間の交渉で、慰安婦への補償について語られることはなかった。当然のことだ。当時の人々は、慰安婦の事実を常識としてよく知っていた。公娼制の下での職業売春婦に過ぎないと。

慰安婦問題が日韓間の葛藤のテーマとなったのは1991年、金学順が初めて元慰安婦として名乗り出て体験を語った時点からだ。

それ以前に、1970年代ごろから日本では反日日本人たちによる虚偽の慰安婦問題をでっちあげる活動があったが、韓国がこれに呼応したのは、ずっと後のことだった。

なぜかというと、日本では1945年の終戦とともに日本の軍人を相手にした慰安婦はいなくなった。(終戦後しばらく、進駐軍相手の慰安婦は少し存在したが)しかし、韓国では、その後も、朝鮮戦争(1950年~1953年)があり、その後も、休戦状態に入ったとはいえ、南北の軍事的緊張は続き、韓国軍や国連軍の将兵を相手にする慰安婦が存在しつづけた。そのため、韓国民がその実態についてよく知っていたからだ。

時が流れ、韓国は急速な経済発展を遂げ、1988年に韓国でソウル・オリンピックが開催された。韓国は先進国レベルにまで到達した。

1991年というのは、その3年後だ。

なぜこの時点かというと、大東亜戦争はもちろん、朝鮮戦争も知らない世代が成長し、若い人を中心に慰安婦のことをよく知らない韓国民が増えてきたために「虚偽」が入り込む余地が生まれたからだ。

そして、この「虚偽」は、貢女という民族的記憶に彩られ、その色彩は、妄想の膨張と共に次第に毒々しくなって今に至っている。

<この山本付記の韓国語訳>

위안부 문제란 실은 조선민족의 역사에 깊이 스며든 슬픈 기억의 오버랩, 즉 자기투영이다.

그들이 주장하고 있는 위안부의 스토리 즉 “일본군에 의해서 20만명의 여성들이 끌려가서 성 노예가 됐다 “운운하는 것은 이 공녀의 비극과 겹친다.이 땅에서는 아주 긴 세월에 걸쳐 여성들이 지배자에 의해서 끌려간 일이  반복되어 왔다.

그리고 일본은 1910년부터 1945년까지 35년간 이 땅을 합방・ 통치했다.

지배자였으니 일본도 당연히 그런 일을 했을 것이라는 억측(자신들을 피해자로 만들기 위해)그랬으면 좋겠다는 굴절된 소망이 공녀라는 민족적 기억을 불러일으킨 것이다.

그것은 비교적 최근의 일이다.

대동아 전쟁(태평양전쟁)이 끝났을 때가 1945년, 일한 기본 조약이 맺어진 것이 1965년인데 조약 체결까지 일한 간 협상에서 위안부 보상에 관한 이야기는 나오지도 않았다.당연한 일이다. 당시 사람들은 위안부의 사실을 상식으로서 잘 알고 있었다.공창제하의 직업 매춘부일 뿐이라고.

위안부 문제가 일한 간 갈등의 소재가 된 것은 1991년 김학순이 처음 위안부로 나서고 체험을 이야기한 시점부터이다.

그 이전 1970년대 경부터 일본에서는 반일(反日)일본인들에 의한 허위 위안부 문제를 날조하는 활동이 있었지만 한국이 이에 호응한 것은 훨씬 뒤였다.

왜냐하면 일본에서는 1945년 종전과 함께 일본 군인을 상대로 한 위안부는 사라졌다.(종전 후 잠시 동안 진주군을 상대하는 위안부는 약간 존재했지만) 그런데 한국에서는 그 후에도 한국전쟁이 있었고, 그 후는 휴전 상태에 들어갔지만 남북의 군사적 긴장은 계속되어 한국군이나 유엔군 장병을 상대로 하는 위안부가 계속 존재했다.그래서 한국의 국민은 위안부의 실체를 잘 알고 있었기 때문이다.

세월이 흐르고 한국은 급속한 경제 발전을 이루어 1988년에는 서울 올림픽이 열렸다.한국은 선진국 수준에 도달했다.

1991년이라는 것은 그 3년 후이다.

왜 이 시점인가 하면 대동아전쟁은 물론 한국전쟁도 모르는 세대가 성장하고 젊은 사람들을 중심으로 위안부를 잘 모르는 한국민이 늘어나면서 ‘허위’가 끼어들 여지가 생겼기 때문이다.

그리고 이 허위는 공녀라는 민족적 기억으로 얼룩지고 그 색채는 망상이 팽창되면서 점점 독해지고 지금에 이른다.

 

<参考に>

時間のある方は、この映像を見てみてください。

イ・ヨンフン(李栄薫)元ソウル大学教授による解説です。日本語字幕も付いています。

[日本軍慰安婦問題の真実] 1. 朝鮮戦争と韓国軍慰安婦


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。